一昨日の晩、かなり久しぶりに後輩のやっている方南町のやきとり屋『ルートヴィヒ・ヴァン・
ベートーヴェン作・
交響曲第9番ニ短調作品125第4楽章に導入されている合唱及び独唱部んトコの名称と同じ店名』に行ってきた。
当初、こちらもやはりかなり久々となる
パール弟と会うつもりだったが、パール弟は、今日はボランティアでかなり草臥れてしまったということで、一ヶ月ほど前に神戸から越してきたというゲンちゃんを紹介してくれるというマサと、特に予定なく部屋にいるというエージェントスミスMも誘い合わせて合流した。
ゲンちゃんは今時珍しいなかなかの好青年だった。そして、出身が千葉県野田市ということで、地元民でも知りえないような、何故、野田市が醤油の町として発展したかなどという、知っていても何の得もないような薀蓄を、初対面のオレから散々聞かされたりしていた。
ゲンちゃんの他にも、『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作・交響曲第9番ニ短調作品125第4楽章に導入されている合唱及び独唱部んトコの名称と同じ店名』では、そこの常連でもある方々にも久しぶりに会うことが出来、がっつり話し込むことも出来よかった。
で、そんなこんなで久しぶりにちょいと話し込んだりしていたので、あっという間に閉店時間を過ぎてしまったてはいたが、後輩は、炭だけ消してはいたが、片付けなどを後回しにし、心行くまでがっつり話し込めるよう配慮してくれてはいた。
しかし、煌々と燃え盛り濛々と白煙上げる炭火を前に、流石に慣れたものとはいえ、蒸し暑い時節柄、
宝塚出身女優・天海祐希似のその端正で爽やかな顔立ちにも疲れの色が見て取れたので、その時点で既に迷惑を掛けていた訳ではあるが、親しき仲にも礼儀ありとばかり、これ以上過ぎることは不味いと、暖簾を潜って、今にも泣き出しそうな夜空の下に出たのである。
で、「どうします?」とマサが尋ねるので、一応、シコタマ飲んだにも拘らず、蒸し暑さの所為か飲み足りない感じではあったスミスMとオレは顔を見合わせながら、「じゃもうちょっと飲んでくか」というようなことを言って、とりあえず、まだ帰宅の途につかないことの意思表示をした。
が、しかし、マサがカラオケボックスの案内をガン見していたので、オレは慌てて「
カラオケ以外ならいいよ」と付け加えた。
するとマサは、「じゃ行きましょう」と、何故かカラオケボックスの出入口の方へオレをエスコートしようとしたので、オレは賺さず「オイオイ」と、てっきりマサが冗談で言っているのだと思い突っ込んでみたが、マサは「へっ?」と、逆にオレが冗談で飲んでいくかのように装ったのではないかという、こちらの人格を疑うような驚きにも似た悲しい表情を浮かべたので、オレは「カラオケ以外なら行ってもいいよって言ったんだけど」と、落ち着き払った口調で真実を述べたが、マサは「カラオケならいいよって言いましたよー」と、スミスMの「カラオケ以外ならいいよと言ってましたよ、私、ちゃんと聴いてましたから」との証言に少しも取り合おうとはせず、「何が嫌なんですか?何で嫌なんですか?」などという、親しく杯を酌み交わしていれば想像に難くない筈の愚問を矢継ぎ早にぶつけて来たのだ。
オレは普段こういったとき、「だってゆっくりトークを楽しめないだろ」と言うことにしているが、勿論、これは正直な気持ちだが、ここはもっとはっきりと行きたくないというオレの強い気持ちを伝える為に、それも柔らかな物腰の中にも明らかな拒絶を表明出来る絶妙な形で、「オレ、カラオケ大っ嫌いなんだわ〜」とマサにぶつけたのであった。
しかし、マサは、だからといって客観的に何の切り替えしにもなっていない微妙な、「この間、高円寺で行ったじゃないっすか〜、カラオケ」と、返して来たのだ。
オレはそのやり取り自体、既に本題から逸れていることは重々承知ではあったが、「どうしても歌いたいって五月蝿いから付き合っただけで、オレ、歌ってなかっただろっ」と、普通ならぐうの音も出ないような嫌味な台詞で決めてやったのだ。
オレはその台詞を言い放った瞬間、これでマサは諦め、もうこれ以上この件について話すことはもうないだろうと、既に安堵の色を隠し切れず、斜向かいの『白木屋』で、生
グレープフルーツサワーを注文しようと踵を返していた。
が、しかし、が、しかし、である。
既成事実というものは、余程のことがない限り、そう簡単には作ってはいけない。
マサは、「どうしてもまた歌いたいんですよ〜」「どうしてもまた聞いてもらいたいんですよ〜」と、まるで捨て猫がそうするかのように甘えてきたのである。
しかし、その猫なで声、そのあくまでも下手に出ている言葉のトーンの下には、一度この方法で成功しているのだからという、いわばその味を占めたことのある人間が持つ独特の絶大なる自信が隠れているのである。
埒が明かない。
その自信がそうさせることは、もう火を見るより明らかであった。
助け舟・・・オレはスミスMが浮かべているであろう、語り合いたいのでカラオケは嫌だという表情を期待し、スミスMの顔色を窺ったが、どうオレ自身に贔屓目に見ても、七三に撫で付けられた黒髪を乗せたスミスMの顔は、特に頬の辺りが、満更でも御座いませんと言っていたので、オレは断る理由を一切思い付くことが出来ず、カラオケボックスへと入ったのであった。
で、明け方。
今年三回目のカラオケ。
マサは忘れているであろうが、看板こそ挿げ替っているものの、正月にもここへは来たのだ。
カラオケこそが社交として持って来いであった15〜6年前以来、近年稀に見る利用率である。
疲れた。
兎に角、疲れた。
恐らくそれは、深酒がイケナイ訳でもなければ、マサの歌がイケナイ訳でもなく、ならば当然、5:1の割合の1の方で歌っていたスミスMの歌がイケナイ訳でもない。そして、カラオケ文化そのものがイケナイ訳でもない。
上手く表現出来ないが、オレがこれを忌み嫌ってしまう要因は大きく分けて二つ。
その理由も一応、芸術という形として昇華されているものでもあり、天才と呼ばれている人ですら、人生を賭け、骨身を削って勝負しているので、不謹慎極まりない発言に大変恐縮してしまうが、あくまでオレの好みの問題という範疇で、誤解を恐れず書いてしまうと、まず一つは、カラオケでよく歌われる、所謂、ヒット曲には、その歌の作り手の、特定の人物に対する、または、社会への鬱積した不満、愚痴を、一方的に聞かされたような気分になってしまうものが多いからなのだ。
勿論、歌は非常にプライベートなものなので、それは、それでいい訳なのだが、そんなことに何らの興味も持ち合わせていないオレが、そんな不満や愚痴を、自らで選択することなく一方的に聞かされるのには、難儀極まりないということで、しかも、これはかなりの生命力がいるので参ってしまう。
もう一つには、女性を限りなく肉の塊としてしか考えていないにも拘らず、「好きだ」「可愛いね〜」「愛してるよ」と言いさえすれば、一晩くらいはと、すぐに身体を許してしまう女性を容易にゲット出来ると踏んでいる下衆男を連想させられてしまうからなのだ。
そして、そのヒット曲をカラオケで歌う人を見ると、薄々それに気が付いているにも拘らず、地位と名誉か金か肉体的欲望か、それとも女同士の勝ち負けを推し量る一つの規準として確立しているが故か、はたまた単なる暇つぶしからか、兎に角、自らが夢見る形とは正反対の理由で、そんな下心を受け入れる軽い女を客観視させられているようで、極めて醒めた気分になるのだ。
事の良し悪しは別として、ヒット曲には、そんな軽い女をすぐにその気にさせる下心見え見え下衆男の決め台詞のような、何かそういった仕組みのようなものが、過分に、露骨に、ウンザリ組み込まれているように感じて止まないのである。
しかも、大抵、そのどちらにも、楽曲としては余りにも安定していながら、詞的には奇を衒うという気味の悪い矛盾があるように思えてならないのである。
そして、それは、ちょいと大袈裟にいえば、親や学校の先生などに一度も逆らったことのない挨拶爽やかな近所でも評判の青年が、ある日突然、いたいけな少女を歯牙にかけるという過ちを犯したというニュースをTVの、それもワイドショーで見せられたときの、あの何ともいえない嫌な気分に似ているのである。
それも、それを商売として、お金貰って作ったり歌ったりしているのであれば、一応、オレも社会人の端くれとして理解に苦しくないが、それが、こともあろうに、お金を払ってそうしているというのであるから、ヒット曲そのものに加え、カラオケという行為にも何とも疎ましい思いを抱いてしまうのである。
勿論、非常に前向きで、ユーモアに富、含蓄や挑戦の気概に溢れた素晴らしいヒット曲もあるが、往々にして、ヒット曲というものには、人の心を容易に捉えることが出来得る代わり、何処となくそんな浅はかな感じがしてしまうのである。
ま、そこに何らかの楽しみを見出せるのであれば、それはそれで素敵なことであるとも思う訳ではあるが。
ともあれ、散々歌い捲くったお陰か、マサが非常に元気になり、スミスMも楽しかったようなので、先輩としてはこれはこれでで由としよう。
そして、どうもオレは、体のよいクリーンヒットより、デッドボールか振り逃げで出塁を狙うような人生がよく似合いそうなので、今後、熱心にその研究を試みてみようと思う今日この頃である。